尾張の風雲児『織田信長』
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
戦国の世を切り開いた尾張の風雲児。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権を確立。
戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。
この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。
天下統一まであと一歩というところまで迫るが、「本能寺の変」により自刃。
織田信長の幼少期
母である「土田御前」が父:織田信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。
『信長公記』によると、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から”尾張の大うつけ”と称されていた。
また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父:信秀にとっても寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。
また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、この時に両者は固い盟約関係を結ぶこととなった。
織田信長の尾張統一
尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。
信長の父:信秀は、その信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。
信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護:斯波義統が、その計画を信長に密告した。
これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子:義銀が手勢を率いて川狩に出た隙を見計らって義統を殺害する。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。
こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。
これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。
織田信長が尾張統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻を開始した。
駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人から4万人に及ぶ大軍であった。
織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝する。
その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出陣。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。
現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却することになった。
清洲同盟
桶狭間の合戦の後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。
これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。
それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、双方の利害関係が一致した結果であった。
両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた。これが有名な「清洲同盟」である。
この同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで戦国の世において長い間維持された。
織田信長の天下布武
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものになっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。
しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。
永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹:お市を輿入れさせた。
永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する戦国大名になった(稲葉山城の戦い)。
ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており、本格的に天下統一を目指すようになったと考えられている。
足利義昭上洛
永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。
これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。
信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。
唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の守護への任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。
織田信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。
しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。
そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の合戦)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどして、武田軍に圧勝した。
安土城の築城
天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始した。
安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。
イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。
信長は岐阜城を嫡子:信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
織田軍団結成
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。
信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。
・北陸方面:柴田勝家軍団
・対武田方面:滝川一益・織田信忠軍団
・関東方面:滝川一益軍団
・美濃・尾張・飛騨の抑え:織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱
・近畿方面:明智光秀軍団
・四国方面:織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団
・山陰・山陽方面:羽柴秀吉軍団
本能寺の変
信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。
ところが、羽柴秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し本能寺を襲撃する。
この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の高さを考慮し、また、光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていた。
100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。
しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。
詳細情報
- 生没年:1534年5月12日〜1582年6月2日(天文3〜天正10)
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 肩書き:武将
- 通称:三朗上総介
- 別名:第六天魔王、大うつけ
- 幼名:吉法師
- 官位:右大臣、正二位、太政大臣、贈正一位、・・・・・
- 享年:49歳
年表
- 1534年:織田信秀の嫡男として誕生する
- 1542年:那古野城主となる
- 1546年:元服
- 1547年:大浜城攻めで初陣を飾る(勝利)
- 1548年:斉藤道三の娘と結婚する
- 1551年:尾張国(愛知県)を統一
- 1555年:清州城に本拠地を移す
- 1560年:「桶狭間の戦い」に勝利して、今川義元を討つ
- 1567年:「天下布武」の印象を使用する
- 1568年:足利義昭を奉じて上洛を果たす
- 1570年:「姉川の戦い」に勝利
- 1573年:足利義昭を京から追放する
- 1574年:伊勢長島の一向一揆を殲滅する
- 1575年:「長篠の戦い」に勝利し、武田軍を圧倒する
- 1576年:安土城を築く
- 1582年:本能寺の変で自刃
織田信長肖像画
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